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この墓から臨む故郷の景色は草原の中に赤い屋根の実家が見え、更に遙か彼方には日高山脈もある美しい眺めである。話は遡り、私がまだ若かった頃、職員が集まっている談話室に一風変わった流浪の歌人が来ていた。彼は私達の名前を聞くと、すぐにその文字を入れた歌を詠み色紙に書くプロだった。それが珍しくて、私も父のをお願いすると、正しく名前4文字の入った短歌を書いてくれた。この色紙が、たいそう気に入った父は玄関の真正面に飾り、お客が来るたび手に取って自慢していた。さて、この短歌から父の名前が分かるだろうか?
私が小4の時「少女ブック」9月号の文通コーナーで、折り鶴の手紙を集英社へ送ると正月号の付録に入れる企画があった。早速、それを黄色い折り紙に手紙を書いて鶴を折り投函すると、正月が明けた頃に福岡県朝倉に住む同級生の早苗さんから手紙が届いたのだ。こうして私達の文通が始まり、もうすぐで70年になる。早苗さんの手紙から、中村哲先生ゆかりの山田堰近くにある日本最古の三連水車を見たくなり15年前に朝倉へ行って見た。すると、想像以上の大きさと力強さに圧倒された事が今もなお強く心に残っている。
これは私が初めて詠んだ俳句です。2019年11月頃、友人は亡き義母の俳句を命日に向けて、まとめていました。その作品は自分の周りの小さな事を情景豊かに書いた句ばかりでした。80代とは言え、その感性に感動し初めて俳句に興味を持ちました。それがフォト575を始めるきっかけとなったのです。
今回は我が家に残っている数少ない思い出の物を取り上げてみた。先ずこのぬいぐるみは三女が結婚の時、私にプレゼントしてくれた。それも娘の誕生時と同じ重さで。次に橙色のセーターは私が二十歳の時に着ていたが、編み直して当時の人気キャラ アラレちゃんを刺繍し長女のセーターに。更にミッキーは次女の体操着袋のアップリケだったが、私のバッグにつけてみた。最後にマスコットの小さな猫は、確か3個作っている筈だけど…。ともかく、こんな手作業が大好きで、今日も私は靴下カバーの踵を繕っている。
あの日、歌笛中学校体育館の謝恩会々場で同級生の正一さんはカラフルな紙テープを手に、三橋美智也の「古城」を歌っていた。何故か、あの場面だけが記憶に残っている。卒業後30年も彼の消息は分からなかったが、ある日「正一さんがテレビに出ている!」と友達から電話が入ったので、見てみると「民謡全国大会」のステージに立ち、関東代表として全身から溢れる声で歌っていた。聞くところによると、彼は演歌を諦めて民謡に転向し、地元のイベントなどで活躍しレコードも出していた。その正一さんは数年前に亡くなり、同級生も少なくなった。近々、15回卒業生最後のクラス会が行われるが、楽しくて和やかな時間であるよう願っている。
蒸気機関士だった義父は1947年に42歳の若さで亡くなっている。昨年、帰省した時に頂いた遺品の文鎮を手に取って見ると、表はC51の御召列車が彫られ、裏には「準備は萬全 事に當っては平然」と記されていた。これはどうやら旧国鉄の記念品のようだ。こんなきっかけで、大宮の鉄道博物館を訪ねたが、ここに文鎮と同じ御召列車が展示されていた。更に、SLの機関士が大きな汽笛を鳴らしながら転車台を廻る姿に義父を重ね、思いを馳せるひとときとなった。
「ぐりとぐら」の作者 中川李枝子さんの訃報をニュースで知った時に、この句が生まれました。「ぐりとぐら」は野ねずみが作る大きなカステラと「ぐりぐら ぐりぐら」のリズミカルな言葉が印象に残っています。当時は近くに自治会運営の図書室があり、お揃いの絵本用バッグを持った子供達とよく通いました。絵本の世界は奥が深くてとても楽しいです。当時の私は、その魅力に惹かれて地域仲間と読み聞かせをしながら良い絵本を集め、密かに家庭文庫を妄想していました。
高2の時、友達同士で赤ちゃん時代の写真を見せ合うのが流行っていたが、私にはそんな写真はなかった。そこで家の写真箱を探すと、母方の家族10数人の中に、母に抱かれた1歳の私を見つけた。その時、どうしても友達に見せたくて私だけを切り抜き、それを名刺の裏に貼りイラストも描いた。写真の中の叔父はソ連での過酷な抑留生活を経て4年ぶりに帰って来たので、母は末っ子の私だけを連れて1日がかりで実家へ行き、記念写真を撮ったのである。その大切な写真に穴をあけたことが、今もなお、これを見ると心が痛む。
今年は35度以上の猛暑が続いて厳しい夏だった。そんなある日、Fレストランのメニューに「当店のかき氷は貫目氷を使用しています」と書いてあるのを見た。それ以来ずっと「貫目氷」が気になっていたので、ようやく食べてみたら、それはきめ細やかでフワ〜ッとしており、果肉とシロップの相性も絶妙で美味しかった。
「貫目」とは、かつて重さを表す単位として使われていたけれども、私が12歳の時に尺貫法は廃止された。それ以来、メートル法を使ってきたが、今回、1貫目は3.75kgだとすぐ脳裏に浮かんだ。
子供達の通った小学校と幼稚園は、歩いて20分ほどの農家へ野菜を買いに行く途中にあった。しかし、小学校は11年前に閉校し昨年解体されて更地になっている。一方、隣の幼稚園は新築し、園庭には大きな遊び場「トム.ソーヤのおうち」もあり、辺りの風景は大きく変わった。ところがその先へ行くとピーナツ掘りの畑や野遊びの広場、更に栗林もあの頃のままである。
そんなある時、杜でかくれんぼをしているトトロとメイちゃん達を見つけた。こんな情景の「となりのトトロ」は夢のある楽しい映画だった。
私の幼き頃の事である。檀家の前田さんは寺の行事がある度に台所の手伝いに来てくれた。そして、いつも穏やかな笑顔でこっそり私に小遣いを握らせた。ところがあの日は、巾着のような紙包みもくれたのだ。それを開けると星のような粒々が入っており、とてつも無く甘いお菓子だった。
最近、可愛いカルミアの蕾を見た時、金平糖によく似ていると思った。そうかぁ、おばさんから貰ったあの甘いお菓子は金平糖だったのだ。
小学生の頃、隣のおばさんに付いて山へ蕗採りに行った事がある。獣道では足元に次々と出て来る蛇に悲鳴をあげた。そんな私を尻目におばさんは木の枝で蛇を払いながらどんどん進むので恐る恐る付いて行くしかなかった。帰りは、太い蕗をどっさり背負って山を下りた。あの頃は遊びのように山菜採りをしていたが、あれは家族の食を支える大切な仕事だったのだ。
裏庭に生えている蕗は細いけれど柔らかくてなかなか美味しかった。
娘から届いた写メのタイトル「新しい上履き」に、こんなコメントが添えられていた。「何気なくひっくり返してみたら…可愛い絵が😊 次女の絵です」
今月、4年生になる孫娘が、花束で愛を捧げるミッキーと大きなリボンのミニーの絵を上履きの裏に描いていたなんて…。それは、まるで落書きのように壁に描き出した「傘をさすネズミ」で有名になったバンクシーみたいだと、ニンマリしてしまった。
町外れにある老医師と事務員だけの診療所は、このご時世でも和式トイレなのに驚いたが、それを見て若い頃のドジを思い出した。事の起こりは姉からゴムのないパイル生地の細長い物を貰った時だった。この形はハイソックスしか考えられない。変だなぁ、スキー用かしら? と思いながら使っていた。後年、ある家のトイレに入った途端、ワアッ!と叫んで真っ赤になって飛び出した。何と、あれがトイレカバーとしてあったのだ。その当時の私は和式トイレしか知らない田舎者だった。
今年も富山の売薬さんがやって来た。村の親戚を拠点に、お客さんの所を数日かけて回るのだ。売薬さんは茶の間に荷物を下ろすと、紙風船を1つ膨らませて、ポ~ンと私に放ってくれた。こうして、おまけの紙風船を数枚貰うのが年末の楽しみだった。売薬さんは世間話をしながら置き薬の精算と補充をし、仕事が終ると何段もの柳行李を背に雪道を帰って行った。あの薬箱の苦い正露丸は、お腹が痛くなった時の魔法の薬だった。
「たばこ小賣所」の看板や窓の感じからして、ここは昭和初期からのたばこ屋だと思った。昭和30年代、故郷の村にもたばこ屋があり、窓辺にお爺ちゃんが座っていた。あの頃、父は袷の着物に兵児帯を締め、糠ストーブの前で「ききょう」を吸っていた。私と同じ名前のたばこがあるのに……。 「どうして、みのりを吸わないの?」と聞いたら「みのりは不味い」と、キセルで灰受けの角をコンと叩いた。何故か、私はそのキセルの掃除が好きでコツコツとやっていた。
この景色を見ると、イタリア映画「ひまわり」を思い出します。あの広大なひまわり畑がウクライナだったとは…。最近「戦争をやめた人たち」と言う絵本を読みました。これは第1次世界大戦の最前線で起きた本当の話です。クリスマスの前夜、ドイツ軍の塹壕から「きよしこの夜」が聞こえてきました。そこでイギリス軍の兵士達も歌うと沢山の拍手が届いて、その夜は両軍で色々歌いました。そして翌朝、1人のドイツ軍兵士が両手を挙げて、相手に近づいて行った勇気がクリスマス休戦に繋がったのです。
7月いっぱい、3女が川崎市の農家カフェで個展を開催しているので行ってみた。静寂な緑の奥でひっそりと佇むカフェのギャラリーには、ちぎり絵や絵手紙など数十点が所狭しと展示されていた。動物や妖怪を始め寿司シリーズなどの作品が自由で楽しく色彩豊かなのは、日々の溢れ出る発想を爆発させたようだ。娘は多忙なワーキングママだが、個展に向けて毎日作品づくりをしたと言う。その励みとなったのは、家事を頑張り応援してくれた優しい夫と子供達がいたからである。
俳句の兼題が「手」と決まった時、私は母の「働く手」を書きたいと思った。子供の頃、母は9人家族を切り盛りしながら坊守も務め、更に6反(60R)もの水田と畑の仕事など、2人分働いていた。当然、顔は焼け荒れた手をしていたと思う。ところが、授業参観や寺の行事になると身だしなみを整え上品な母に変身するのだ。その着物姿が素敵で私は誇らしかった。そんな日は、心なし色白で手も綺麗だったような気がしている。
似た者姉妹がそっぽを向き合う事はなかったと思い、電話で「私達、喧嘩した事ないよね」と姉に聞くと、1度だけ大喧嘩をしたと言われた。小1の私は、いつも姉の後を追い、姉の友達の誕生会にもついて行った。そんな私達を先生はなぜか「タローとハナコ」と呼んでいた。あの日、何が原因なのか私達は取っ組み合いの大喧嘩をし、廊下に投げ飛ばされた私は目を瞑ったままグッタリしていた。その姿に姉は慌てたそうだ。さて、この喧嘩の軍配はどちらに?
土産など1度も買った事のない父が、犬のぬいぐるみを片手にやって来て、ホイッと長女に渡してくれた。1歳の娘はそれをたいそう気に入って、いっときも離さなかった。「まるで分身みたい」と笑ったら、その日から「ぶんちん」と呼んで、ボロボロになるまで可愛がった。
時は過ぎ、長女も大人になって就職した。そして、出張先の宮崎で、今度はくた~っとした「くたお君」に一目惚れしたのだ。この絵手紙は、当時、私が描いて母へ送ったものである。 あれから4半世紀、今も長女夫婦に愛され、ベルちゃんと言うパートナーも出来た。真っ白な体もすっかり灰色になってしまったが、彼も娘の宝物、「ぶんちん」である。
3女とその長女が、玄関に座り込み靴を放って同じ遊びをしています。鳥の声に誘われて、外で遊びたくなったのでしょうか? それとも、これはDNAかしら? 以前に「秋半ば…」で、豆や消しゴムを鼻や耳に入れた我が3代のエピソードを書きましたが、伯母も同じ事をして診療所へ駆け込んでいました 。これもDNAならば、私も1歳の頃、玄関に座り込み靴を放って遊んでいたのかも知れません。
9年前、広島の娘が入院する為、1歳の孫娘を1か月半預かった事がある。その時、毎日通った公園に2本の紅白梅が咲いていた。翌年からあの花が咲く度、孫と遊んだ日々を思い出し「今年も咲いたよ~」と娘に写メしていた。ところが1昨年、あの木が切られる所を目撃し愕然とした。そんな時に、映画「折り梅」を見て、梅は折れても枝先に花を咲かせる強い花だと知った。いつか、あの木の根元から若い芽が出てくるかもしれない。10歳の孫の成長と共に見守って行こうと思う。 ※手折る:たおる
年末になると、ある友人はミュンヘンクリスマス市で、よくシュトーレンを買うそうだ。この名はドイツ語で坑道を意味するが、その形と響きから好いネーミングだと思った。その国ではこの菓子を4週間前から1切れずつ食べて、味の変化を楽しみつつ聖夜を迎えるのが習慣だと知った。そう言えば子供の頃、母にクリスマスプレゼントをねだると、「うちはキリスト教でない」とピシャリ断られたが、それでも枕元に靴下を置いて眠った。翌朝、目覚めると、蜜柑が3個だけ入っていた。
地区センターでの発表会は、ダンスに手拍子も加わり大いに盛り上がった。話は遡るが、今から30数年前、明治座で松平健の「暴れん坊将軍」を観た事がある。第1部の彼は惚れ惚れするようなお殿様だった。それが第2部の緞帳が上がったとたん、度肝を抜かれた。あのお殿様が華やかな腰元ダンサーズを従え、ちょんまげに金ピカ着物で腰をくねらせ踊り歌い始めたのだ。あのステージが、後に大ヒットした「マツケンサンバ」だったとは。それを今、私達が踊っている。
鉄道150年の特集番組は、7年前の高波がきっかけで廃線となった日高本線を映していたが、あまりの酷さに唖然とした。かつて私は、高校通学でこの路線を利用していた。自宅から自転車で30分、列車で30分、徒歩で30分もかけて通ったのだ。また、横浜に転居して初めて帰省した時も日高本線で帰っている。当時はまだ東北新幹線もなく、青函連絡船と国鉄を何度も乗り継いで行った。あの時7歳・5歳・3歳だった娘達も、今や40代、時の流れを感じている。
小学生の頃、友達と庄内の山へ行き、絡んだツルを引っ張って葡萄を採るのが遊びでありおやつだった。その葡萄を母は1升瓶に入れ棒で突いてジュースのような物を作っていた。そんなある日、私はそのジュースをコップに注いで一気に飲んだ。すると、ん? 何か変? 急に顔が火照って胸がドキドキしてきた。更に体中が熱くなり真っ赤な顔でひっくり返った。元来、アルコールに弱い私の生涯で1番多い酒量はあの時の葡萄酒である。
フレアースカートのようなアサガオを見つけ、思わずスマホで撮ったけれど、これは夏の花だと思っていた。ところが、季語では「秋」になるのだ。更にこの花は「時を知らせる植物」だとわかった。その訳は、太陽が沈むと時を刻み始め、約10時間後のまだ暗いうちに開花するからだ。改めて、私の知らない事がこの世に沢山あると思った。
「あなたのアンテナは錆びついていませんか?」とアサガオに問われたような気がした。
堂々と道路を横断するカルガモ家族に、お巡りさんが車を止めて交通整理しているのを見たことがあります。あれはカルガモ家の引っ越しだったのでしょうか? あの愛らしい行列にカメラマンが殺到していました。 ところで、この親子は何をしているのでしょう。もしかして引っ越しの途中? それとも、記念撮影なの? ※軽鳧の子:かるのこ
5月に開催されたカーリング日本選手権大会に於ける選手達の溌剌とした真剣な勝負は見応えがあった。その中で注目したのは、平均年齢19歳の新生・北海道銀行チームだ。結成して5ヶ月なのに、カーリング女子「4強」に割って入り3位になった。若いだけに、これからも楽しさと悔しさをたくさん経験するだろう。その成長して行く姿にエールを送りたい。因みに、この選手は私の姪の娘です。どうぞ応援してやって下さい。
「それは、まったくすてきな朝でした。空はやぐるまそうのように青く、雲なんてよけいなものはひとつもありませんでした」
これは、松谷みよ子作の児童書「モモちゃんとプー」の1節です。若い頃、読んだ本なのに、何故か、この部分だけが印象に残っていて、青い矢車草を見るたびに空を見上げてしまいます。多くは花畑の隅っこで風に揺られていますが、私はこのような青い矢車草が大好きです。
週間誌で、この「まんだら堂やぐら群」を見た時、エッ?と思った。ここは高貴な人を供養する施設で、鎌倉から室町時代頃まで使われていた。そこを逗子市が5月の連休に公開していたので行ってみたが、裏道から登ったのは失敗だった。古い石段は綱1本だけで鳥の気配もない。更に雨上がりの道はズブズブで足をとられそうだ。切通路で3人の見学者と会った時はホッとした。その頂上は150穴以上のやぐら群があり異様な雰囲気だが、古代のロマンを感じさせる場所だった。
中1の春、自転車で潮干狩りに行く話がクラスでまとまった時、横乗りしか出来ない私が家から10キロもある鳧舞の浜まで行くのは無理だと思い諦めた。その当日、浜の方へ自転車が列をなして走って行くのを庭で見ていると、急に悔しさが込み上げてきた。そこで直ぐに物置から父の自転車を引っ張りだし、思い切ってサドルに飛び乗りペダルを蹴った。すると、その弾みで反対側のペダルが上がったので、次々に蹴るとどんどん走った。こうして、その日が私の自転車デビューとなったのである。 ※横乗り:三角乗り
今年の桜は例年にも増して美しかった。先日、花びらを手一杯に集め、飛ばして遊んでいる園児達を、近くの公園で見かけた。そのとき写真を撮っていた保育士に、「後ろ姿だけ撮るのもいけませんか?」と聞いてみたが、案の定断られた。しかし、「この姿をしっかり目に焼きつけて下さい」との言葉が印象に残った。そう言えば、横浜生活のスタートはこの公園前の家だった。ベランダから公園が見えたので、娘達が近所の子供達と遊んでいた姿は、今も私の目に焼きついている。
春の季語に「猫の恋」を見つけた時、傍らでアンモナイトみたいな格好で眠るチコの事を思った。16歳と言えば青春真っ只中のイメージだが、猫の16歳は人間で言う80歳だ。若い頃のチコは時々家から脱走したが、足がすくんで動けず外でブルブル震えていた。こんなことでは恋どころか冒険さえも出来ず、遂に脱走は諦めたようだ。今では、私からせしめたビーズクッションの上で、ほぼ1日中うたた寝をしているが、快食快便とマイペースな性格もあり、健康そのものである。
鎌倉本覚寺夷堂の脇道にある小さな蕎麦屋が以前から気になっていた。その日は2時過ぎとあって客は誰もいないようだ。「入ろう」と促されてガラス戸を開けると、店内は廃材で作ったカウンターと椅子だけ、4人も入ればいっぱいだ。そこを40代の女性が1人で切り盛りしていた。注文した蕎麦は太麺に薄味の鰊と刻みネギのシンプルな物で、蕎麦茶との相性もピッタリだった。帰りの道すがら、「ここの蕎麦を食べると、他では食べられないなぁ」と夫はぽつりと一言漏らした。 ※夷堂:えびすどう
この銅像は源氏山の源頼朝公である。そして、山裾の寿福寺には妻の北条政子が眠っている。1月から鎌倉を舞台にNHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が始まった。その冒頭から、アッ!と言わせた三谷脚本には驚いた。鎌倉幕府は頼朝亡きあと、いろいろな説はあるようだが、事実上、実権を握るのは政子になるようだ。今回の脚本は悪女で気の強い政子をどのように描くのだろう。もしかして、意志は強いがチャーミングでカッコいい政子になりそうな予感がする。日曜の夜は鎌倉時代を学びつつ、コミカルな三谷ワールドを楽しみたいと思っている。
ある大晦日の午後、風呂敷包みを背に阿部さんが雪の中を急ぎ足でやって来た。「来たよ~」私が大声で知らせると、母はすぐ酒の支度にかかった。檀家で世話役の阿部さんは、畑から採れた粉で蕎麦を打ち、家まで持って来てくれたのだ。そして父と酒を酌み交わしながら「ワシの眼の黒いうちは、毎年ごえんさん家へ持って来る」と、いつもの台詞を言う。やがて夕方になり、今度はゆっくりとした足どりで1里先の家まで帰って行った。昭和30年代の我が家では、こんな贅沢な蕎麦で年越しをしていたのだ。
ウオーキングで通るこの道は、野鳥のさえずりが聞こえる心地良い場所である。今、鳴いているのは何かしら? ここでは、ムクドリ・シジュウカラ・スズメの他にどんな鳥がいるのだろう。最近、これらの野鳥が減っていると聞いた。どうやら環境の変化で餌となる昆虫の減少が影響しているらしい。そんな事を思っていると、急に強い風が吹いて、目の前の枯葉が次々と坂道を転がって行った。それは子供たちが、かけっこをしている姿によく似ていた。 ※ 朝北風:あさぎた
孫とのケーキ屋さんごっこは、いつも私がお客さん役だった。「ごめんください」と店頭で声をかけたら、「ごめんありません」と断られてしまう。そのあと何度も、「ごめんください」と言うけれど、その度に「ごめんありません」とニッコリのケーキ屋さん。こんな事が可笑しくて、よくごっこ遊びをしたものだ。そんな時に使うレジスターは、娘がペットボトルのキャップなどで作ったのである。
源氏山は標高100mにも満たない低山だが、剥き出した根っこだらけの道なき道を登って行った。頂上に着いて源頼朝公像を見上げていたら「ヤッホー!ヤッホー!」と声がしたので振り向くと、課外授業の男の子達だった。「ヤッホー!」を聞くなんて何十年ぶりだろう。そのあと、平坦な道や狭い岩の間を滑るように降りて下山した。最後に北条政子と実朝の墓巡りをし、鎌倉の歴史に思いを馳せる散策となった。
ラジオ体操を終えて、公園のザクロを見た時、私は絵手紙に描きたいと思った。そこで、背伸びをしてストックで突いてみたがビクともしない。すると仲間のMさんが木の側のフェンスによじ登り、手を伸ばしたが届かなかった。今度はKさんが、近くの丸椅子を踏み台に、私のストックで枝を引っ張ると、ようやく採る事が出来た。「描く前に食べるなよ~」と、Kさんがニヤッと笑いながら渡してくれたザクロが、私にはルビーのように見えた。そこで、575の文字もルビー色にした。
私達は、メタセコイア(曙杉)に囲まれた広場でラジオ体操をしている。そこに8月から小1と幼稚園の兄弟が仲間入りした。当初、夏休みだけだと思っていたが、10月の今も、6時半にバタバタッと走ってくる。そして2人がする上下左右のバラバラ体操がなんとも可愛らしい。最後に、リーダーからハンコを貰い意気揚々と帰る姿に、みんなでエールを送っている。
子供の頃、家で飼っていた綿羊はいつも栗の木に繋がれ草を食べていた。そんなある日、姉と栗のいがを割っていたら、突然「逃げろー!」と兄が叫んだ。振り向くと、綿羊がこっちへ向かって突進して来ていた。わたしは夢中で逃げたが、玄関の手前でドンと突かれて尻餅をついた。一方の姉は、その先の勝手口に駆け込んでいた。綿羊はそのあと大人しくなったけれど、もしかして、あれは兄の悪戯だったのではないか。今だ、謎である。
私と娘2人の名前は語尾に「り」がついている。その事に気づいたのは三女が誕生する少し前だった。そこでこの娘にも「り」をつけようと考えた。しかし、みどり・かおり・さゆり、どれを取っても私達の名前と似ているから聞き違いすると思い、やむなく「り」にこだわる事を諦めた。そんな時にシューベルトの「菩提樹」の曲と情景が浮かんできた。その歌詞の「泉」に因み、優しい文字の「いづみ」と名づけた。菩提樹の花言葉は「夫婦の愛」、その種子は数珠になる。そして、歌詞の最後は「此処に幸あり 此処に幸あり」である。
「いちいの木」を北海道では「おんこの木」と言っている。子供の頃、生家の庭に3本のおんこの木があった。中でも1番のお気に入りは、実が多くて枝振りの良い大きな木であった。実が赤くなると、「木が傷むからダメ!」と親に怒られつつも、姉や友達と木に登り甘い実を食べながら枝から枝へ。そして、種の飛ばしっこもする。そんな遊びが楽しかった。しかし、うっかり噛った種の苦かったこと。あれが猛毒だったと、今回初めて知った。
「ダダダーッ!」真夜中の暴走バイクに、1歳の娘は悲鳴をあげ火がついたように泣いた。どんなにあやしても興奮は治まらない。困り果てたわたしは、気分を変えようとリビングの灯りを点けた。更に本箱から絵本を出し娘を膝抱っこして読んでみた。すると、安心したようにすやすや眠ったのだ。そんな事が毎晩続いて、小さいのに絵本がわかるんだと気がついた。それからは毎日、他の絵本も読んでやるとたちまち大好きになった。そして、この「おおきなかぶ」は、半年で100回以上も読まされた。
今、横浜スタジアムでは、東京五輪の野球が無観客で行われている。一方1998年の夏、ここは横浜ベイスターズファンで溢れ返っていた。そんなある日、長蛇の列の中にいた私にリポーターがひょいとマイクを向けてきた。そして、その模様が翌朝、放映されたのである。後日、遠征から帰った長女が言った。「私の赤いTシャツで応援に行ったでしょ」エッ!? なんと、娘は長野県であのテレビ番組を見ていたのだ。今も飾ってある優勝の写真パネルは、その長女からのプレゼントである。
これは今の私の自転車である。初めての自転車は高校へ通学する為に買った。自宅から最寄り駅まで30分、砂利道で転倒し膝を擦りむいたり、蛇を踏んだりもあったが、いつも歌いながら走っていた。6月の体育祭の時である。友達の三角おにぎりに目を見張った。海苔の間からご飯が見えて、お洒落だったのだ。私の大きくてまっ黒なおにぎりが野暮ったくて、あの時は隠すようにして食べた。でも、あれは全部海苔でくるんだ贅沢なおにぎりだったのに。
私達の小学校は、農繁期になると1週間の援農休暇があり、4年生以上は日当150円で各農家へ田植えに派遣された。これは、当時6年生だった私の日記である。「城地さんへいった。Sちゃんに『苗ちょうだい』と腰のかごを引っぱられて畦で尻もちをついた。去年も同じ家で同じ事になったから変だ。今朝、去年のことを友達に話したばかりなのに、また同じ失敗をした」なんと、ぼんやりな私。Sちゃんには4年生の田植え初日も、一度だけ同じ手で泥んこにされて泣いて帰った筈なのに…。 ※早少女:さおとめ
公園で桑の木を見た時、その実を食べて舌を真っ赤にした子供の頃を思い出した。ある日、母に連れられて親戚の家へ行った時の事である。大広間いっぱいのザルに桑の葉が山と積んであり、その中で、もぞもぞ動く沢山の蚕を見た時から虫が苦手になってしまった。後に長女が、「可愛いでしょ、見て、見て!」と掌に蚕を乗せて見せにきた時も、「イヤーッ!」と逃げ廻ったものだ。今思えば、私達の為に絹糸となり、一生を捧げてくれる健気な蚕だったのに…。
次女誕生の日、病室へ向かって来る長女の靴音がする。ドアが開くなり「赤ちゃんどこ?可愛い!抱かせて!」、抱っこをして気が済んだのか、私に見向きもせず「パパ帰ろう。バイバ~イ」には唖然とした。まだ2歳なのに…。そして2年後の三女誕生の日、2人の娘がバタバタと駆け込んで来た。「可愛い!抱かせて!」と一緒に抱っこして満面の笑顔だ。「さぁ帰ろう」と母が言った途端、次女が「イヤ!ママがいい!」泣いて叫んで手こずったが、嬉しさ2倍の日となった。
家にはわたし以外、誰もいない。そこで、「藤娘ごっこをしょう」と3人の友達を誘った。そして、1本の造花の藤を持ち交代で踊ってみるが何か物足りない。日本舞踊の「藤娘」は、黒い塗り笠に裾の長い着物で藤の花枝を背に踊っている。「ちょっと待って~」わたしは奥の和室に入り箪笥の引き出しをそっと開けた。数日後、「私の着物、勝手に着たでしょ!」と長姉の雷が落ちた。おかしいなぁ、きちんと畳んで仕舞ったのに…。あれは、たった1枚しかない長姉の銘仙の着物だったのだ。
アンデルセン童話の「おやゆび姫」はチューリップの花から生まれている。幼稚園のお遊戯会の演目が「おやゆび姫」に決まり、娘は主人公に立候補するも蝶々の役になり、がっかりしていた。そんなある日、眼鏡を外して踊りたいと言い出した。私は転倒を心配して渋ったら「トンボの眼鏡はあるけど、蝶々の眼鏡はないでしょ」
これには1本取られてしまった。当日は眼鏡を外し、ふんわりした黄色いワンピースで踊る姿は「おやゆび姫」より断然可愛い蝶々だった。
苫小牧市で鍼灸師だったKさんの訃報が届いたとき、46年も前の事が甦った。夫は若い頃、仕事中に怪我をした。ある時そこが再発し、たちまち歩けなくなったので、お灸や足を揉んだが、激痛は治まらなかった。そこで1日2回タクシーでK治療院まで通った。そこの親身な治療のお蔭で3ヶ月後には職場復帰が出来た。帰省した折りに、Kさん宅へお礼に伺ったとき「あの跨線橋を歩いて、中野町から此処まで来られた時は本当に嬉しかった」と話した夫の言葉が深く印象に残っている。
わたしはTV番組の「駅ピアノ」や「空港ピアノ」が好きだ。『街角ピアノ「横浜」』を見て、その場所へ行ってみたがコロナで閉鎖していた。あの番組で特に印象に残ったのは、ベートーベンの「月光」を弾く79歳の男性だ。彼はピアノに憧れていたが貧しくて習う事が出来ず、教師になってから音楽室で練習を続けてきた。中古のピアノを買ってからは、妻に毎日のように「月光」を聴かせていたが、20年前に事故で亡くした。そんな「月光」をいつかここで、わたしも聴いてみたいと思った。
「雛人形をしまうのが遅いと晩婚になる」と言うのは迷信と知りつつ、雛まつりの翌日には片付けていた。その甲斐あってか、娘達は良き伴侶に恵まれ一安心した。ところがその後、子育て中の日々を思い出し、余りにも反省する事が多く心がざわついていた。しかし、今の私に出来る事は限られている。そこで一つ一つに意味のある吊るし雛を贈ろうと思った。幸せを願う77個の雛づくりは無心になれる時間だった。これはもう15年も前の事である。
地元建設会社の社員数名が水耕栽培会社を立ち上げ、その野菜の試食販売を依頼して来た時、わたしは男達の心意気に共感し仕事を引き受けた。休日で混雑した大手スーパーの売り場で、ヘルメットをエプロンに換えた3人と呼び込んでいると、同年代の女性がやって来た。彼女はルッコラなどを買いながら気軽に話かけてきたが、何故か、わたしと気が合ったらしく突然隣でお客様に商品を薦め始めた。こんな縁で友達になって、もう15年にもなる。
2月1日は42年前、家族で苫小牧から横浜に引っ越してきた日である。千歳空港でも吹雪が止まずロビーで待つも、その日の便は全て欠航した。ようやく引っ越し先に着いたが、家の周りは、雨に濡れて暗く人影もない事に気づき初めて不安になった。そんな時、冬なのに寒椿が真っ赤に咲いている事にハッとし、元気を貰った。それからは住めば都と少しずつ自分の居場所を作り、「~じゃん」と言うハマ弁が板に付くまで2年とかからなかった。
この跨線橋に来ると、いつも下り方面の列車を見る。のぞみに乗り3時間余りで娘家族が住む広島なのに、このご時世出かけられない。その娘が結婚を決めたきっかけは、2004年の台風23号の時、水没した観光バスの屋根で一夜を明かした37名のニュースである。当時娘は、遠い広島の彼との結婚に躊躇していたが、あの映像に衝撃を受け、まだ何も起こらない内に彼と一緒になりたいと決心したそうだ。あれから、広島と私達を繋ぐのはのぞみである。
小学生の頃、青年演芸会で踊る智恵子さんの股旅姿に憧れていた。その一方、祭りの山車で踊る友達が羨ましくて、母に「踊りたい」とせがんだが駄目だった。そこでわたしは家族を前に、おひつの蓋を笠にして「花の三度笠」を毎日踊っていた。そんな子供時代を思い出し、4年前に江戸芸かっぽれの門を叩いた。初舞台の演目は「ええじゃないか」である。尻っぱしょりの浴衣で、さぁ出番だ!拍子木の音が大ホールいっぱいに響いた。
6時に家を出て広場で仲間とラジオ体操やストレッチをするのが、半年前からの日課となっている。帰りに公園のブランコを見た時、乗って見たくなった。立ち漕ぎは子供の時以来なので、どうも足元がおぼつかなかった。でも今はもう慣れて軽く漕いでいるが、少し高い所から見える景色は、なかなか好いものだ。そして辺りが明るくなり鳥のさえずりが聞こえる頃に、朝のウォーキングはお終いになる。
「みかんの花咲く丘」をよく歌っていた小3の頃、9人家族の我が家は普段蜜柑を食べられなかった。それで正月はこの時とばかり、うんと食べて姉と手の色を比べっこしたものだ。座敷には火の気がなく鏡餅の蜜柑は凍っていた。それをぬかストーブの湯沸し器で溶かし食べてみたが苦くて不味かった。それなのにあの味を再現したくなり、冷凍した蜜柑を電気ポットに入れてみると、意外にも缶詰のようなオツな味だった。
しずり雪とは、木の枝などに降り積もった雪が滑り落ちる事である。このシジュウカラは胸から腹にかけて太く黒いネクタイ模様なのでオスである。こんな光景を見ると、生活の糧を求めて出勤するネクタイ姿のサラリーマンとダブって見えた。
1955年(S30年)の頃です。お正月用のセーターとコールテンのズボン、メリヤスの肌着は畳んで枕元に置きました。あとは靴下だけです。わたしはせっせと編んでいる母の手元を見つめます。「早く寝なさい」、そう言われても寝られません。明日の登校までに出来上がるのか心配です。ぬかストーブの火は赤く、鉄瓶から白い湯気が立っています。あと少しで除夜の鐘です。
子供達が幼かった頃は、一人ひとりにオモチャをプレゼントする余裕がなかった。クリスマスの朝は暗いうちにツリーの電飾をつけ、お菓子入り長靴3個とみんなで遊べるゲームを枕元に置いた。子供達が目覚めた時、わたしは布団の中のぬいぐるみを天井めがけて放り投げ、「好きなもの取りなさ~い」キャ~! 子供達は飛びついた。みんなが眠ったあと、😺と🐰と🐭のぬいぐるみを余り布で作って置いたのだ。
わたしは20過ぎまで、蜜柑の木を見た事がなかった。静岡でその木を見た時は、嬉しさの余り蜜柑と葉のついた枝を折って北海道へのお土産に持ち帰った。JR東海道線の電車はオレンジと緑色である。「湘南色」と言うそうだ。静岡の蜜柑と葉っぱの色で決めたと聞いていたが、どうやら蜜柑とお茶のイメージのようだ。
南蛮好きの私は、「辛い物を食べるとバカになる」と言われていた。父は来客を座敷に招き飲み始めると、小1のわたしを呼び紹介する。「この子は幼稚園にも行ってないのに頭のいい自慢の娘だ」
元来下戸の父は銚子半分も飲むと別人に変貌し、言いたい放題になり家族は辟易していた。やがて南蛮のせいか、わたしの成績は伸びず父の自慢話もなくなった。どうやらわたしは父親不孝をしてしまったようだ。
市民の木があるように、私の木はドウダンツツジ(満天星)である。春は鈴蘭のように、秋は鮮やかな紅葉となる。「満天星」と書くこの文字もなかなか好い。10数年前、富士山が見える小高い丘に樹木墓を購入した。これは好きな花の下で自然に還れるのが決め手となった。いつか、ここに私の木を植える時が来る。その日まで、しなやかに生きたいものだ。
毎年この季節になり、石蕗の花が咲くといつも思う事がある。それは亡き向田邦子の作品「思い出トランプ」だ。その中に「花の名前」という短編があり、「つわぶきのつわです」と、名乗るつわ子が登場する。それ以来この花が気になるようになった。女性の機微を丁寧に描く向田作品が好きだ。40年経っても手離せない1冊である。
就職で一人暮らしを始めて最初に買ったレコードは「夜明けのトランペット」である。久しぶりにそのレコードを聴いた。あの頃は毎日、残業できつかったが、野球大会や観楓会などのあるアットホームな職場だった。忘年会で事務部の余興は「金色夜叉」と決まる。私は父の黒マントを羽織り、お宮役の大きな男性を下駄で蹴った。珈琲と柔らかな音色がタイムカプセルの蓋を開けてくれたようだ。
(アッ、ごはん) この花を見て、幼い頃のままごとを思い出した。白い野菊はご飯です。外で遊んでいるわたしたちを、お母さん役の良子ちゃんが呼びます。庭にむしろを敷いて、お昼ご飯は割れた茶碗にダリアやコスモスのおかずが盛ってあります。みんな揃って「いただきま~す」、箸は木の枝でした。
家族の事と仕事で目一杯だった40代は、金木犀の香りに気づいていなかった。ある日、お客様から「あなたの眉間の皺、良くないね」と言われた。その日を境に、わたしは前髪を下ろした。何年か過ぎた頃、ふと思った。もう欠点を隠すのは止めよう。前髪を上げてカチューシャで留めると、「最近、明るくなったよ」 何人もの言葉が力になった。今、金木犀の香りに気づくわたしがいる。それがとても嬉しい。
わたしが幼児の頃の出来事である。その日、母は庭で大豆を選り分けていた。その1つを摘まむと鼻の穴に入れ、片方の小鼻を指で押さえて、フン! 豆は手のひらに。そんな遊びを繰り返していた。フン!フン!オヤッ? 出てこない。何としても取れなくて母と病院へ駆け込んだ。私の娘は鼻に消しゴムを。その子供は耳に小豆を入れて取れなくなった。どうやら我が家系、こんな遊びがお好きなようだ。
故郷の墓参りは、子供の頃から庭の花を手向けていた。この花は、とりわけ猫のムクへの思いと重なる。小4の時、学校から帰ると赤松の根元で、ムクが口から泡を吹きもがいていた。家には誰もいない。探している間にムクは死んだ。わたしは亡骸を裏のポプラの下に埋め、木片に「ムクのはか」と書き、周りをお盆花で埋めた。最後に「お経をあげて」と父に頼んだ。父は輪袈裟をして来てくれた。
われもこう色のストールに一目惚れし、つい買ってしまった。ストールには30代の頃の苦い思いがある。野良猫が、我が家の押入れで子猫を産んだのだ。わたしはその子猫を箱に入れオレンジ色のストールに包み、通学路の側に置いてきた。後に怖々見に行くと、全てなくなっていてホッとした。しかし、あのストールも、一目惚れで買ったお気に入りだった。
この花を見て、ゲンノショウコを煎じて飲んでいた祖母を思い出した。小1の頃、友達と石蹴りをしていると、「遊んでないで庭の草むしりをしなさい!」、怖い祖母の声。そこで友達に「学校ごっこをしよう」と提案し、私が先生になった。そして「草むしりの時間」を作り、みんなでやった。祖母の目があるとき限定の「時間割」だった。
日々、ウォーキングをするも、見慣れた風景の中をなんとなく歩いているわたし。石原気象予報士の言葉、「空を見よう」を思い出し、視線を上げて見た。まっ青な空だ。オヤッ? 白い雲が何かの形に見える。ゴジラ? ワンちゃん? 横顔? 想像を膨らませながらのウォーキング、これもまた面白い。
子供の頃、我が家に網も虫籠もなかった。トンボを見つけると忍び足で近づき、2本の指で羽を挟んで掴まえる。捕った!それだけで満足だった。トンボは360度に近い視野を持っているらしい。肉食で、生きている昆虫しか食べないと、先日初めて知った。しかし、このトンボは蜜を吸っているように見える。もしかして、お口直しのデザートかしら?
ゆりの姿は凛として美しい。音の響きも、ひらがなの優しさも気に入り、次女に百合と言う名前をつけた。その娘から、「Mさんと結婚する」と聞いた時、この娘は広島へ行き、もう横浜に戻って来ないと覚悟する。ふと、母のことを思い出した。私が「東京へ行く」と言った時、母は黙って俯いた。いつも何も言わずに私を信じてくれる母だった。
6年前に2名から始まったラジオ体操。リーダーの都合で8月から土、日、祭日が休みとなった。通い始めて1か月、体操が1日のリズムになっている。「ラジオを持って来ますから、休日も体操をしませんか?」と、数人に声をかけた。初日の土曜日は半分の9名が集まり、ラジオも3台揃った。賑やかな蝉の声とともに、新しい朝が来た。
頬に広がるソバカスが嫌でした。直射日光も苦手でした。佐々木さん、永田さん、そして私は、C組のソバカス3人娘。「私達、ソバカス美人よね~」と、慰め笑った高校時代。あんなに気にしていたソバカスも、今では顔の何処にもありません。あれは若さの証だったのでしょうか。
ラジオ体操へ行く途中である。木の上でカァ~。続いてカァ~、カァ~と良い声がする。3羽のハシブトガラスが同じテンポで鳴いている。何度も繰り返し、会話を楽しんでいるようだ。普段のカラスは、野鳥の雛を狙い、町のゴミを荒らす憎きヤツ。なのに、今日ばかりは不思議と愛らしく思った。
近所に住むKさんは明るくお洒落な人だ。庭のノウゼンカズラを誉めた時、ひと枝切ってくださった。私は花を絵手紙に描きポストへ入れた。後日、その話をすると、「あら、そうだったかしら?」彼女が認知症だと、その時、初めて知った。あれから数年、Kさん宅のカーテンは閉まったままである。今年もまた、見事なノウゼンカズラが咲いている。
マスク姿が日常となって半年になる。外出もままならず、部屋の整理をしていると23年分の手帳があった。 当時の、スケジュールで埋まった手帳をめくり、よく頑張ったと自分を誉める。2020年の手帳には、春から記入する事項がなくなった。いずれ、今の騒動が去り、予定を書き込む時が来るだろう。その日を待ち望んでいる。
大変!チコがいない。何処へ行ったのだろう。14年前、我が家に猫のチコが来た。すぐに私の毛布で寝て、そのまま毛布を独り占めした。そのあとも膝掛け、タオルケットなど次々と奪っていく。なぜか、私の物ばかりだ。そして、とうとう大切な白くま君までも…。さて、次なるターゲットは?
娘達が通った幼稚園の門前に300冊ほどの絵本が積んである。あの当時、園に絵本はなかった。お迎えの時、娘に絵本を読んでいると、周りに園児が集まってくる。いつの間にか読み聞かせになった。勇気を出して「子供達に絵本を」と園長に懇願した。 園長はすぐに図書コーナーを作り、絵本を揃えてくださった。40年も前の事である。
浦河へ行くのは年に一度だけ、初めて見る綺麗な花柄のボールに釘づけになった。6年生の姉にねだるも、帰りのバス代が足りない。私達は考えた。終点に着いたら、車掌に事情を話し、停留所付近で勤務中の長姉に頼もう。私はバスの最後部でボールを抱きウトウト…。姉は終点までの1時間、切符切りが来ないか、ずっとドキドキしていたとか。
お揃いの赤いスカートは姉妹でしょうか。オヤッ? あっちからも、こっちからも、お友達が集まってきました。みんな白いワンピースです。ヴィヴァルディの「四季」のメロディが聞こえてくるようです。
1952年3月4日10時22分〈昭和27年〉、十勝沖地震が起きた。小学校では、1年生の姉が、倒れてきた下駄箱の下敷きになり、その上を子供達が走って逃げた。全校生徒が校庭に揃った時間、姉は倒れたまま2度意識を失っていたと言う。先生に付き添われてグショグショの顔で帰ってきた姉。その姉は6月10日、76歳の誕生日を迎える。
時刻表が好きでした。見るだけで旅が出来ます。その時刻表を片手に一人旅をしたこともあります。今やネット時代、時刻表は姿を消すかもしれません。社会派ミステリー の巨匠、松本清張なら、今をどう思うでしょうか。
全日本フィギュア2005「くるみ割り人形」を舞う15歳の真央ちゃん。指先まで美しい演技も、愛らしい姿も、ピンクのコスチュームも、鮮明に私の記憶に残っています。
家の池の傍にうさぎのような花、ユキノシタが咲いていました。理科の時間に、その「葉」を顕微鏡で覗くと…。レンズの先に別世界がありました。
故郷の山にはたくさんのカタクリの花が咲いていました。その山で、友達とよく花摘みをしました。でも、白い花だけは摘んではいけません。雨ふり花ですから。

懐かしい映画を観ました。「若草物語」、四人姉妹の家族の物語です。少女のころ、我が家にその本があり、私は逞しい次女のジョーが好きでした。友達と四つ葉のクローバーを探したのも、そんな頃でした。
庭の山吹を見て、母が小学生の私に教えてくれた太田道灌にまつわる古歌、「七重八重...」の思い出として作りました。
※七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき 兼明親王 作
頬被り姿? このご時世、マスク姿にも見えます。今、子どもたちは、外で思いっきり遊ぶことができません。あと少しです。「本当の春」は必ずやって来ます。その日まで、首をなが~くして待ちましょうね。
鳥がこんなにも美しいと、数か月前まで知りませんでした。教えてくれたのは友人の撮った鳥の写真です。1月なのに暖かな日でした。水に飛び込むカワセミの背の色に魅せられました。

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